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12nd.November,1998.

Blue Celestial Body by Akio HIZUME
for Translucent Tranquilizer by Tomoko N.

青の天体

日詰明男

子どもの頃、夜、直接を見るのが好きだった。
まだ一人で歩いて行ったことのない遠くの建物から、かすかに届く電灯のが怖いながらも惹きつけられた。
どうしては光芒を放って見えるのか、あの放射状の線は何なのか、母にきいても、質問の意味がどうしても伝わらず、もどかしく思ったものだ。

、凍った道に反射する星のような輝き。そしてその星を踏みしめると、子どもの足でも一つ一つの結晶が小さく砕け散る音がした。破壊の罪悪感とも異なった、言葉にならない感情がいつも去来したが、やめられなかった。

逃げても逃げても後をついてくる
いまだに、異常に明るかった、ある満月の夜の光景が忘れられない。あれほど明るかった夜には以後お目にかかっていない。で虹がかかることがあるというが、私はさもありなんと思う。一度でいいからそのような幸運に遭遇してみたいものだ。

い」と大人が言う感覚を、子どもの頃は理解できなかった。
しかし「」という「概念」を私なりに積み重ねてきた今、確かにいと思う。もちろんそれはただもののではない。
人を狂わすとか、静謐のとか、玲瓏とした、冴えわたるとか、さまざまに表現されてはいるが、それでも私はまださに対してはほとんど語られていないと思う。

私は1993年に故長野耕平氏の紹介で二宮知子の作品を知った。私は一見して彼女はの画家だと直観した。
ここ数年の二宮知子は顔料に限定されず、また平面的なフレームにもとらわれず、さらには支持体までもが消失し、そのものの質感を実体化しようとしているようだ。そのためには地球上のいかなる元素・物質も彼女にとっては素材になりうるのである。
顔料とフレームといういわゆる「絵画の大前提」を捨てることは、たやすいようでたやすくない。それは定型詩と自由詩の関係に対応するだろう。
定型から離れることは大海に船出するに等しく、空中分解する危険を伴う。自由詩で語られる苦悩ならば、既に近代以降必要以上に語られている。
作家の衝動が切実なものであれば、定形を離れてもふさわしい素材は必ず作家の前に現れ、決して作家を拒まないだろう。
この宇宙空間に編み込まれた元素・物質のアーティキュレーションは、それほどまでに豊かで、包容力あるものだと私は確信している。

私は今回の彼女の作品のいくつかを食べたいと思った。
私はこの類の食欲を以前も感じたことがある。
それは、夢の中でのことだった。森の中の小さなから大きなが立ちあがっていた。その泉の中を私は潜り、の足元までのように泳いでいった。上部の水面からは物質化したのかけらが白く輝きながら無数に降っていた。見下ろすとはるか湖底には、それらの堆積が残像のようなを発し続けていた。それらはが持続する間だけを蓄えるらしい。
私は手を伸ばして、不定形な三角形のかけらを一つ手にしてみた。熱くはなかった。に入れるあっという間に溶けてなくなり、かすかにオゾンの香りが残った。

もまた青し」とは誰の言葉だったろうか。
二宮は以前「澄みきった頭の中にはいゼラチンの天体がある」と書いたことがある。たしかに私たちのの中心には、に反応する器官がある。私たちはそのい天体に惹かれてならない。彼女が求めているものはまさにその天体の現し(うつし)に他ならない。

太陽はすべてを焼き尽くすまでに明晰な論理的天体である。
大地には猥雑さが栄える。
しかし問題の天体は、その中間にあって、変幻し、捕らえ難く、あやういのかたち(情報)を私たちに送り続けることだろう。
私たちはそのい情報に高揚する。

Iowa City にて
ひづめあきお:日詰明男(STARCAGE Institute of Geometry 幾何学,建築)

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□above
"Lumi di Luna" material:wax,LED  height:70mm
photo by T.Ninomiya
□below
"on DEN's table" material:wax,LED  160×120×95mm
photo by Akihiko IIMURA
©1998 Tomoko Ninomiya

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